5月3日のついろぐ

saijotakeo(@saijotakeo)/2011年05月03日 - Twilog

【以下4月30日の話】数日前、渡波地区で支援物資を配りながら後方支援の窓口を作って歩いた。現状を広く伝えなければ何もかわらないので、河北新報の記者さんに電話でかなりまずいことになっていることを伝えたら、ふんばろう東日本と渡波の生の声を記事にしたいと。
posted at 01:40:43


そこで窓口になってくださった現地の方々の声を聞きました。ある高齢のおじいさんは津波で電信柱が倒れてきて物凄い衝撃があったと。みると家に大きな損傷の跡が。他の家族は他の地域に避難させずっと一人で家を守っていたようです。今は1つの布団で5人が寝ていると。それが栄田2区の自宅避難宅。
posted at 01:44:05


しかし2区よりも栄田1区(より海沿い)の方が酷いと。区長さんが津波で亡くなり配給もままならず、車もないために買い出しにもいけず、ライフラインがなにひとつ通らないところもある、高齢者ばかりの地区。鹿妻小学校などで配給しているが長蛇の列。高齢者は並ぶこともできない。
posted at 01:47:03


1区で窓口になってくれそうな人いませんかというと、案内してくれるという方が。高齢だけど若々しい女性。高いエネルギーを感じる。車に乗ってもらって移動。
posted at 01:48:23


すると驚いたことに、案内されたのはその2日前にしょうた君と出会ったまさにその道、その場所だった。やはりこのあたりには人が住んでいたのだ。今日のプライムニュースで流れた映像はまさにその地域。出演者はこんなところに人が住んでいるのと驚いていた。
posted at 01:51:57


この人なら窓口になってくれるといって紹介された方は、やはり高齢だが若々しく高いエネルギーを感じるご夫婦だった。役割分担がコミュニケーション役は奥さんらしく、必要な物資をお渡しながらいろいろとお話を伺った。
posted at 01:55:22


まずこの地域はライフラインが、水、電気、ガスのいずれも通っていないと聞いて驚いた。まだそんな地域があるとは。少なくとも避難所はどれかは通っている。
posted at 01:56:47


そのご夫婦は避難所も人が沢山いて大変だろうと思って、自宅が残っている自分たちはと思い、自宅に戻ったとのこと。しかし避難所には物資が届くが、自宅で必死に掃除をして道なき道を水を運んでいる自分たちには物資が届かないというのは、どうなんだろうと忸怩たる思いを抱いていたとのこと。
posted at 01:58:07


津波からはどうやって逃げたんですかと聞くと、逃げようと思って車に乗ろうとしたらすぐそこに津波がきていて旦那さんと一緒に流されたと。
posted at 01:59:53


向かい側の家に流されて奥さんは紐に掴まり、旦那さんはカーテンに掴まって、奥さんを支えてくれたとのこと。奥さんはあまりにも突然津波が目の前に現れたので何が起きたかわからず、マンホールの蓋が開いて水が飛び出してきたと思っていたといってました。
posted at 02:01:30


そこの津波の第二波がきたおかげで水かさが増し、その家の屋根に上がれたそうです。窓が開いていたから中に入って1時間ほどいさせてもらったと。水が引き始めたので家に戻ろうとすると、漁師の旦那さんが今はまだ引き波でまずいといって止められたと。
posted at 02:03:19


その後、旦那さんが大丈夫だと判断したときに向かい側の我が家に泳いで渡ったそうです。車に乗せていた3匹の犬は車ごと流されて、車は近くの倉庫に入っていたそうです。「それがちゃんとバックで車庫入れされてたのよ」といって笑っていました。明るさがないと生きていけません。
posted at 02:05:28


数日後車が発見されたとき、わんちゃんは1匹だけ生きていたそうです。
posted at 02:06:21


その狭い地区だけで50人がなくなったとのこと。頑丈な家だけが残っており、それ以外の家は跡形もありません。車で逃げた人もほとんどの人が途中で流されて亡くなったとのこと。そのご夫婦も車に乗る前に流されたことで助かったのかもしれません。
posted at 02:08:59


またその太田さんをご紹介してくださった阿部さんもご自分の体験をお話してくださいました。本当は3月12日に友達が遊びにくるはずだったが急に11日になって、その日松島に行っていたときに地震が起きたため助かったと。家はすべて流されたそうです。
posted at 02:13:44


誰に言っても信じてもらえないけど、前日娘に「地震がくる、地震がくるから乾パンを買わなきゃ」といっていたとのこと。「じゃあ予知できるからこれからも大丈夫ですね」というと、そうねと笑っていました。
posted at 02:15:15


遠方の娘さんは絶対に戻らないでといわれたけど、13日にヒッチハイクして戻ってきたとのこと。ただ全員無事でいてと祈りながら戻ってきたと。
posted at 02:16:26


現地の人は(今は、外では)基本的に明るいです。それは哀しくないのではなく、辛くないのでもなく、大丈夫なのでもなく、明るくしていなければ生きれないからだと思います。
posted at 02:17:29


話していると遠くにおばあさんの人影が。あのかた誰ですかと聞くと「亀山さん」と。妙に気になったので、カメラマンの門田さんと一緒に「かめやまさーん」と呼びながら追っかけていきました。
posted at 02:20:43


事情を話して、今車で物資もってきますからといって、立ち話していると、野菜を配ってくれるボランティアの人達がきびきびしていて威勢が良くて、元気になったと何度何度もいってました。ボランティアの人の活気が伝わってきたのでしょう。とても嬉しそうに話されていました。
posted at 02:23:03


でも少し話を伺っていると次第に辛い話になっていきます。近所の人が「女川に津波がきた!逃げろー!」と叫んだそうです。それで急いで山の方に家族で車で逃げて助かったと。でもその直前まで話していた人が家の前の瓦礫の中に2人埋まっていたのが発見されたと。
posted at 02:26:39


涙目になってたので、そういえばとすぐに話題を変えました。ちょうど車も到着したのでそこでまた露天商のように必要な物はどんどん持って行ってくださいねといっていると、おばあさんは真っ赤な小さなポシェットが気に入ったようでした。とても似合っていたので、おばあちゃんすごい似合ってますよと。
posted at 02:28:43


「かなり似合ってますよね」と車を呼びにいって戻ってきた門田さんにふると、「うわあ、誰かと思ったなや、さっきとは別人だっちゃ」と東北弁。おばあちゃんは照れていましたが嬉しそうでした。いろいろ見てても相当高いコミュニケーション能力がないと良いカメラマンにはなれないと思いました。
posted at 02:32:36


あるときには、みんな大変だってことを伝えるためにも写真とらなきゃだっちゃ、といってました。それは無理強いという感じではなく、説得力をもって被災者の方にも伝わっていたように感じました。コミュニケーションのやりとりの中で非明示的なインフォームドコンセントが行われているかのようでした。
posted at 02:37:09


この感覚を言葉でうまく伝えるのは難しいですが、功名心や好奇心ではなく、尊重と被災者のためを思ってという気持ちが大前提にあった上で、絶妙なコミュニケーションをとることで、傷つけずに被災者をカメラに収めることができている、という感じでした。
posted at 02:39:26


僕らと大坂分団長さんとのやりとりもそういう感じだったように思います。まず僕らにおかしな私心がないことは伝わったと思います。その上で僕や北川さんは撮影の意図を真摯にそのまま伝えて許可していただいた、という感じです。
posted at 02:42:39


被災者はひとりひとり物語をもっています。何万人という数ではそれを知ることはできません。数でわかることもありますが、数を知っただけでわかったつもりになってはいけない。被災者の気持ちは全体の数では測れません。
posted at 02:44:57


助かっている人は、皆運が良かったり、奇跡的に助かったりしています。その背後にはそうじゃない人がたくさんいます。
posted at 02:46:00


話はさらに遡ります。26日、陸前高田市で重機免許無料取得の話がまとまった後のことです。その後、6時と6時半に2つラジオの生出演があったので、一人車に戻り話しました。東京と仙台FMだったと思います。
posted at 02:48:13


中部日本放送は重機免許の下りも全部撮影していました。その後、僕がパソコンでふんばろう東日本の説明している映像を撮りたいが、そこの自動車学校は電波が入らないということなので、とりあえず高田分団駐屯地に向かって、そういうところがあるか聞くことに。
posted at 02:51:23


僕があった中部日本放送のスタッフは良い人でしたし、僕はふんばろう東日本を知ってもらうことは被災者支援につながると思っているので、リクエストがあれば誰かを傷つけるものでなければ応じることにしています。
posted at 02:52:52


高田分団では、先ほど若い団員が何人も発見されたということで、団長は不在でした。僕が「この辺(の近く)で電波がある街はありませんか」と聞くと、団員達は「街はなくなったからなや」と冗談をいって笑っていました。
posted at 02:56:31


ここを使わせてもらうことってできませんかというと、いいですよといってスペースを空けていただけました。でもこれは南三陸町もそうですが、ずっと後方支援してきたというこれまでの経緯もあって雰囲気をみて大丈夫そうだなと判断した結果であり、基本的にそうした関係性がなければ難しいと思います。
posted at 02:59:12


そうこうして撮影を終えた頃、山田エイジさんらも合流。ちょうど晴れて太陽光発電のPRビデオをうまいこと撮れたとのこと。太陽光パネルの上を雨で水滴流れていたら切ないですからねーとみんなで笑う。
posted at 03:00:52


互いの半日の経緯を話して、じゃあこれでここではお別れですねといって、エイジさん、柳橋さんとがっちり握手をして、僕らは南三陸町に。エイジさんらは一関に。
posted at 03:02:10


陸前高田から南三陸町に行く間には気仙沼が。辿り着いたときには真っ暗。いけどもいけどもゴーストタウンにみえた。陸上にあるタンカーは近づくと戦艦大和のような巨大さで、こんなものがと圧倒される。他の地域にはない光景。
posted at 03:04:15


それから気仙沼は臭いが酷い(ちなみに石巻港も格別に酷い。質は違うがバキュームカーのような強烈さ)。何が混ざっているかわからない。マスクをしないで長期間活動するのは絶対にやめた方がよい。
posted at 03:06:11


大きな船がたくさん集まっている船の墓場のようなところもあれば、巨大なタンクも転がっている(もちろん陸)。写真でみるのとはスケール感が違いすぎる。こんなばかでかいものが....と圧倒される。
posted at 03:07:21


しかししばらく進むと、無傷の街が広がっている。セブンイレブンがまぶしい光を放っている。津波が届いたか届かなかったかでこれほどまでに違うのだ。
posted at 03:09:02


セブンイレブンに寄って買い物をする。やたらまぶしかった。自分たちの夕食とアリウープ兄弟達への差し入れに、ビールとつまみ、たばこを買った。ビールはプレミアムモルツを買った。前日に発砲酒があったので、自分だったらこれが嬉しいだろうと思ったからだ。ちょっとした贅沢は活力になる。
posted at 03:14:53


僕らが南三陸町に向かっていたのは泊めてもらうためだ。それは前日夜遅く帰るときに、アリウープ兄弟が「西條さん、今日は帰っちゃうんですか」といってくれたからだ。
posted at 03:15:43


そのときは泊まるという選択肢はなかったのだけど、後から考えると、あれは泊まっていってください、ってことじゃないかとも思えたため、その日の朝、場合によっては泊めてもらうことは可能かなというと快諾してもらえたので、お言葉に甘えることにした。避難所に泊まってわかることもあるだろう。
posted at 03:18:22


その後、南三陸町に向かうが、海岸線が行き止まりになっていたので、さすがの父もカーナビに頼ることに。その道が凄まじかった。何十キロもひたすら曲がりくねった1本道。まったくスペースがないのですれ違う車がきたら何キロもバックしなければならないほど。
posted at 03:20:14


90度のカーブどころか180度のカーブがある。この世の道とは思えず、どんなに進んでも着かないのではないかと思ってしまうほどひたすら1本道が続く。結局すれ違った車は1台もなかった。みかけたのはハクビシンが2匹だけ。後で聞くとアリウープ兄弟も1回しか通ったことがないといっていた。
posted at 03:22:32


あの道は夜の津波主被害地とはまた違った意味で怖かった。怖い物などないような父も「さすがに一人だったらこれは怖いな」といっていた。甲田さんも「4人だからよいけど...」といっていた。北川さんだけ後ろで寝ているっぽかった(笑)。文明人は人の手が入っていないところを怖がる。
posted at 03:25:19


千と千尋的な山道を抜けてほっと一安心。南三陸町に着く。何度も通った道のはずだが、まったく同じ壊滅風景で暗いのでどこかわからない。何度か引き返したりしながら志津川高校にたどり着く。
posted at 03:27:09


厨房ではアリウープ兄弟が待っていてくれた。みんなでたわいもない話をして談笑していたけども、世もふけると二人の津波体験の話になっていく。そこでは北川さん一人Ust中継をしてくれたが、中継に入る前の話は悲痛を極めてました。かなりきつい話です。
posted at 03:31:04