「津波てんでんこ」の教訓

http://mainichi.jp/select/opinion/eye/news/20110923k0000m070167000c.html09/23

記者の目:「津波てんでんこ」の教訓=石塚孝志


 東日本大震災が起きた3月、私は科学環境部で地震関係の記事を担当していた。かつてない規模の地震津波に驚愕(きょうがく)しながらも、警察官や消防団員など、責任感から職務を全うしようとした多くの人が逃げ遅れて津波の犠牲になったことに心が痛む。一方で、三陸地方には「責任感」とはまるで正反対のような「津波てんでんこ」という教訓が伝わる。これをどう理解すればいいのか。




 ◇家族も構わず高所へ逃げろ


 「てんでんこ」は「てんでんばらばらに」を意味する方言だ。地震が起きたら、親や子にも構わず、ひたすら高い所へ逃げろということだ。


 繰り返し津波被害を受けてきた三陸地方では、1896年の明治三陸津波、1933年の昭和三陸津波で、高齢者や子どもを助けようとして逃げ遅れ、一家全滅するといった悲劇を経験している。二度と繰り返さないために人々が伝えてきたのが、この言葉だ。岩手県大船渡市の津波研究家、山下文男さん(87)が、昭和三陸津波の時の思い出として、父親が家族を置いてわれ先に逃げた後「てんでんこだ」と釈明していた話を講演で紹介するようになり、広く知られるようになったという。


 そうはいっても、実際に目の前の高齢者や子どもを見捨てて逃げることができるだろうか。私には小学生と幼稚園の子がいる。たとえ自分が死んでも子どもたちを助けたいと思うし、もし自分だけが生き延びたら、どれほど耐え難いか想像もできない。


 今回の震災でも、寝たきりの人を助け出そうとして男性3人が津波に流されたし、老人ホームからお年寄りを助けようとした女性が流され、小さな子どもたちが遺児になったというような話が各地にある。「てんでんこ」が、どれだけ難しいかということだ。


 東京大地震研究所の大木聖子助教地震学)は、「津波てんでんこ」の意義をこう解釈する。各自がてんでに逃げることで、自分で命を守る。その様子を見た周りの人たちも、非常事態を知ることができる。そして「『津波てんでんこなのだからしょうがなかった』と、生き残った人を責めない、またその人の自責の念を少しでも軽くできる、悲しい教えでもある」。東京大の田中淳教授(避難行動)も「津波てんでんこは(他人を思いやる)本来の人間性に反し、簡単には取れない行動だから、あえて伝えられてきたのではないか」と指摘する。


 今回の震災では約2万人の死者・行方不明者を出した。マグニチュード(M)は9.0で、明治三陸地震のM8.25の10倍以上の規模だが、犠牲者数はほぼ同じだった。


 理由は幾つか考えられる。人々の防災意識が高かったことに加え、発生が昼間の活動時間帯であったことや、最大震度6強の強烈な揺れが津波の来襲を連想させたこと、そして阪神大震災のように倒壊した建物に閉じ込められた人が比較的少なかったこと。それでも、2万人という犠牲は小さくない。どうすれば犠牲者を減らせるのだろうか。




 ◇住宅高台移転や建物の耐震化を


 やはり地震が来たら、高台に向かって一目散に逃げることが第一に重要だ。ただ、その前段として、取るべき対策がある。震災から半年余りが過ぎ、住宅の高台移転や高層住宅建設なども議論されるようになった。高齢者や体の不自由な人は、高台や高層住宅など逃げやすい場所に住んでもらう。学校は地域で一番安全な場所に建てる。建物は耐震化や家具の固定で備えるなどが必要だ。


 特に今回、犠牲者のほとんどが、地震直後は生きていたという現実から目をそらしてはいけない。大災害時のぎりぎりの判断に「絶対」の正解はない。「津波てんでんこ」という悲しい決断をしなくて済む備えが必要なのだ。


 野田佳彦首相が所信表明演説をした13日、私は宮城県南三陸町を訪れていた。防災無線を通して住民に高台避難を呼びかけ続け、津波にのまれて亡くなった若い女性職員がいた防災対策庁舎は、赤く太いむき出しの鉄骨姿だった。ここで30人を超す職員が死亡・行方不明になった。


 この堅牢(けんろう)な建物が津波に襲われた時、職員たちの多くは、自分が死ぬとは思っていなかったのではないか。献花台の前で手を合わせながら、本当は誰もが愛する家族や恋人、仲間のために生き延びたかったはずだと思うと、こみ上げてくるものがあった。


 「危機の中で『公』に尽くす覚悟」。野田首相は演説の中で美談として女性職員たちの行為をたたえた。しかし、災害から町民を守る要となる防災対策庁舎が安全な場所になかったという事実は「津波てんでんこ」の教訓として記憶されるべきだ。