津波の恐怖 風化防げ


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津波で県内の17人の命を奪った日本海中部地震(※)から来月で29年がたつ。津波は逃げれば助かる数少ないタイプの災害だが、避難につながる恐怖の記憶は時とともに薄れがちだ。町ぐるみで避難訓練を続けている鰺ケ沢町と深浦町も、年々減る参加者に悩みながら、新しい対策を模索している。

(4月23日の記事です↑ 日本海中部地震は1983年5月26日に発生)

◇3.11警報発令に避難したのは109人(深浦町


 深浦町深浦港に注ぐ川の河口近くに住む主婦、吉井てつさん(77)は、今も29年前の津波に覚えた恐怖が頭に残っている。


 「2階で布団を干してたら、川からどんどん水があふれてきて……。まず、大あわてで家族と裏山に逃げました」。逃げた後も水位はどんどん上がり、自宅の一階は水浸しに。津波が収まって帰宅すると、玄関の灯油缶が布団部屋まで流れ着いていた。


 町では毎年、日本海中部地震が発生した5月26日に合わせ、全町一斉で避難訓練を行っている。防災無線津波発生を知らせ、近所の高台に逃げる訓練だ。


 吉井さんも訓練には参加している。だが昨年3月11日の東日本大震災では、深浦町を含む県内日本海沿岸にも大津波警報が出たのに、逃げなかった。なぜか、津波が来るとは思えなかった。「あとで太平洋側のひどい様子を見て、逃げるべきだったと思った。震災の時、日本海中部の時の怖さが思い出せなかった」


 吉井さんのケースは特殊ではない。


 町によると近年、訓練には9700人余りの町民の4分の1前後が参加している。過去の参加数の記録はないが「減っているだろう」と担当者はいう。


 さらに、震災の際、避難者はたった109人だった。町の大部分が停電し、テレビなどの情報を得づらい状況はあった。だが、町は防災無線で避難指示や大津波警報を知らせる放送をしていた。


 「記憶が風化しないよう毎年の訓練を行ってきた。だが、年中行事化し、緊張感が保てなかったのかもしれない」と担当者は悩む。

◇小中校で防災教育「緊張感いつでも」(鰺ケ沢町)


 深浦町と隣り合う鰺ケ沢町も、悩みは同じだ。


 日本海中部地震以降、毎年の防災訓練に全住民向けの津波避難訓練を組み込むようになったが、参加率は落ちている。地震翌年の参加者は約1800人と当時の人口の15%だったが、2010年は5%。「防災意識の高い人はいるが、落差が広がっている」と担当者は言う。


 防災意識の向上を図るため、町は住民向けの防災教育に力を入れる。町内会リーダー向けの勉強会を行っている。また、若いうちに防災意識を根付かせようと、弘前大の研究者を講師に招いたワークショップも10年、町立学校で始めた。


 ワークショップでは、津波発生のメカニズムや津波に襲われやすい地形を学習。さらに、地図を持って避難場所に行き、なぜそこが安全なのかなどを学ぶ。今年度から、対象を中学1校と2小学校の町内全校に広げる予定だ。

 学校独自の取り組みも始まった。


 海際に立つ町立鰺ケ沢中学校では年2回、地震津波の防災訓練を実施。裏山の避難場所に最短時間で行くコースを各自に確認させるほか、津波到達前に移動できるかを自ら判断し、無理と思えば屋上に逃げるよう教える。「津波は常に起こりえるという緊張感を持つよう、指導しています」と近藤将造校長は言う。


 震災では、学校での防災教育が進んでいた岩手県釜石市で、小中学生のほぼ全員が助かった。


 全国の津波防災に詳しい今村文彦東北大教授は「津波の時、リスクをとっさに判断し行動に移す力が、個人の生死を分ける。何事にも意欲的な子供たちに防災力を植え付けることは、年長者の記憶を風化させないことにもつながるはず」と指摘する。(長野剛)

日本海中部地震
 発生は1983年5月26日正午。秋田県能代市沖で起こったマグニチュード7・7の大地震津波を引き起こし、日本海側の沿岸を襲った。犠牲者104人のうち100人は津波被害者で、県内でも17人の命が奪われた。


 震源に近い深浦町では揺れも震度5と強く、地震発生7分後には引き潮のように海面が下がる「引き波」の津波が到達。15分には海の水位が上がり水流が陸に押し寄せる「押し波」の津波が襲った。


 県の調査では、県の日本海側を襲った津波の高さは2〜6メートルだった。