祭壇に青いランドセル


http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130310/dst13031022020020-n1.htm 03/10

 校庭に積もった雪を跳ね上げて、教え子たちがランドセルを揺らしながら駆けていく。幼稚園児の次男斎藤翔太君=当時(5)=を津波で失った福島県南相馬市の小学校教諭、誠さん(42)は思う。生きていれば春には2年生になって、この青いランドセルもそろそろ背負い慣れてくるころだろうか、と。


 東京電力福島第1原発から100キロの会津若松市。一時避難している大熊町立熊町小学校にいる誠さんに今月7日、身重の妻、真紀さん(36)から電話が入った。「生まれそう」。駆けつけた病院の廊下でやきもきしながら、分娩(ぶんべん)室の扉をみていた。


 産声が聞こえた。


 「弟が生まれたよ。お前の生まれ変わりなのか」

  

祭壇に青いランドセル


 あの日、翔太君は南相馬市の沿岸にある自宅を襲った津波で亡くなった。


 誠さんが妻と長男と暮らす仮設代わりの自宅マンションにある小さな祭壇に、青いランドセルが供えられている。翔太君が小学1年になるはずだった昨年3月、「翔太ならこの色を選ぶだろうな」と買った。


http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130310/dst13031022020020-n2.htm

わんぱくで、「白バイ隊員になりたい」と補助輪付きの自転車で走り回っていた。5つ上の兄とのけんかも日常茶飯事だった。


 震災の2カ月ほど前、幼稚園で友達と遊んでいた翔太君が、隣り合う小学校の校庭に父を見つけて駆け寄り、初めて「お父さん」と呼んだ。それまでは「パパ」だったのに。


 「こいつ、成長しているんだなって思ったのに…。自宅を襲ったのは8メートルの津波だったと聞いた。まだ110センチしかなかった体なんてひとたまりもないよ。翔太、怖かったな」。勤務先の学校から自宅までたどり着けなかった。原発事故で警戒区域となり、捜すことすらままならなかった。


 誠さんは「教師の立場が許さずとも、避難指示を破ってでも、捜しにいってやるべきだったかもしれない。親として失格だった」と自らを責め続けている。


 翔太君が見つかったのは1カ月後。妻がペンで「しょうた」と書いていた黒いトレーナーが目印になった。妻は、泥だらけになった衣服を何度も水洗いし、ほとんど笑わなくなった。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130310/dst13031022020020-n3.htm

どうすればいいんだろう


 優太−。7日に生まれた弟の名は、避難生活を支えてくれる多くの人たちのように優しい人になってほしいという願い。そして、未来を生きられなかった兄からも1文字を継いだ。
 誠さんは、医師が優太君を妻の胸元へ静かに手渡すのを傍らで見守った。「翔太。お前を失った悲しみと、優太の生まれたうれしさとが一緒になって、お父さんはどうすればいいんだろう。胸の痛みを忘れることは翔太を忘れることだから、一生悲しみは消えないよ。けれど、うれし涙もあるんだね…」


 3294グラムのまっさらな命を抱いた妻がにっこりとほほえみかけて、父は人目をはばからず泣いていた。