いのちの石碑


http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20130911ddm041040088000c3.html(ページ3) 09/11
女川いのちの石碑(原文のまま)

 東日本大震災で、多くの人々の尊い命が失われました。地震後に起きた大津波によって、ふるさとは飲み込まれ、かけがえのないたくさんの宝物が奪われました。


 「これから生まれてくる人たちに、あの悲しみ、あの苦しみを、再びあわせたくない!!」


 その願いで、「千年後の命を守る」ための対策案として、(1)非常時に助け合うため普段からの絆を強くする。(2)高台にまちを作り、避難路を整備する。(3)震災の記録を後世に残す。を合言葉に、私たちはこの石碑を建てました。


 ここは、津波が到達した地点なので、絶対に移動させないでください。


 もし、大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください。


 逃げない人がいても、無理やりにでも連れ出してください。


 家に戻ろうとしている人がいれば、絶対に引き止めてください。


 今、女川町は、どうなっていますか?


 悲しみで涙を流す人が少しでも減り、笑顔あふれる町になっていることを祈り、そして信じています。


2014年3月 女川中卒業生一同




http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20130911ddm041040088000c.html(ページ1)

◇家に戻ろうとしている人がいれば、絶対引き止めてください


 宮城県女川(おながわ)町に来月下旬、町立女川中学校の3年生約70人が発案した「いのちの石碑」が建ち始める。東日本大震災から11日で2年半。ほぼ同じ時を重ねた中学生活で津波対策を話し合ううち、保護者や地域住民に協力の輪が広がった。約8割が自宅を流された生徒たちが、被災から学んだ教訓を津波到達地点の碑文に刻む。


 入学直後の2011年4月、社会科の授業だった。「古里にできることを考えよう」。阿部一彦教諭(47)=現・同県気仙沼市立唐桑中教頭=の板書に次々、手が挙がる。「津波の歴史を調べよう」「大津波の原因が知りたい」。教科書も鉛筆も制服も流され、同中に統合前の女川第一・第二中に進んだ「震災後1期生」。自分たちの頭で考え始めた。


 人口の1割弱、870人が死亡・行方不明(震災関連死含む)になった同町。家族を失った生徒も多い。今後も正面から「津波」を授業で取り上げていいのか。ためらう阿部さんは同6月「1期生」山田太介君の俳句を知る。「夢だけは 壊せなかった 大震災」。前向きな内容に背中を押され、津波対策を議論する授業を社会科で始めると、休み時間にも話し合いの輪ができた。


http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20130911ddm041040088000c2.html(ページ2)

 その輪の中で、勝又愛梨(あいり)さん(14)は「自分だけがつらいんじゃない」と思えた。曽祖父母といとこ2人が死亡・行方不明。だが、似た境遇の友人も話し合いに参加していたからだ。


 2年生になると、生徒たちからこんな案が出た。「校庭に津波の記録を残そう」。町役場には1933年の昭和三陸地震を伝える碑もある。津波到達点を後世に伝える「いのちの石碑」プロジェクトが次第に芽生えた。


 沿岸部の全21集落に1基ずつ建てるには約1000万円必要だ。母親らに相談すると、「私たちも頑張る」と「支える会」が発足し今年2月に募金を始め、目標を達成。石材の寄付も受けた。建立する土地の提供を申し出た木村喜一さん(80)は「立派な子どもたちを支えたいと思った」。


 3年生になった全員の案を基に8月26日、碑文ができた。中心になってまとめた阿部由季さん(15)は「飾らない言葉で、ストレートに1000年後に伝える」ことを心がけた。神田七海さん(15)が涙ながらに「逃げようと言ったって、逃げない人がいるんだよ」と語った、祖父の被災状況も織り込まれている。<逃げない人がいても、無理やりにでも連れ出してください>。避難をいとう住民を説得するうち、祖父は津波に襲われた。