飛べなかった防災ヘリ


http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2014_0310.html 03/10

3年前、巨大な津波に襲われた東北地方では、生き延びた多くの人たちがビルの屋上などで救助を待ち続けました。
このとき威力を発揮したのが、ヘリコプターです。
自衛隊や警察、消防、海上保安庁などのヘリコプターによって、史上空前の救出活動が行われ、少なくとも4700人が命を救われたとみられています。
このうち、全国の自治体が岩手、宮城、福島の3県に派遣したのが「防災ヘリコプター」でした。
岩手では花巻空港仙台空港が被害を受けた宮城では山形空港陸上自衛隊霞目駐屯地、そして福島では福島空港を拠点としました。
合わせて58機が活動し、82日間で1498人を救いました。
まさに「命綱」だったのです。
ところが、岩手県の拠点の花巻空港では、震災発生から2日しかたっていないにもかかわらず、防災ヘリコプターが何機も止まったままで、救助に行けない状態になっていました。
今回、私たちが入手した資料や証言を基に当時の救助活動を検証したところ、もしかしたら、より多くの命が救えたかもしれない、そんな状況が浮かび上がってきました。
取材班の小林直記者と藤島新也記者、小泉知世記者が解説します。

そのとき何があったのか
岩手県花巻空港には、震災発生の翌日の3月12日から3日間で、全国18の自治体からヘリコプターが集まりました。
ところが、なかなか出動の指示がなく、飛び立てないヘリコプターもありました。
そのうちの1機が高知県の航空隊です。
13日の午前11時すぎから3時間余りにわたって待機が続きました。
機長を務めた山崎静夫隊長は、「自分たちで対応できるのか不安な気持ちで岩手に行ったが、『あれ意外にない、何もない』と思った。これだけ大きな災害なのに出動要請が何もないのかと疑問に思った」と証言しています。


いったい何が起きていたのか。
私たちは、岩手県から当時の防災ヘリコプターの活動の記録を入手し、分析しました。
それによりますと、花巻空港に最初に到着したのは名古屋市のヘリコプターで、震災2日目、12日の午前6時55分でした。
その後、午前8時すぎに岐阜県、10時すぎには富山県と、各地からヘリコプターが到着し、被災地で活動しています。
3日目の13日も朝から次々と花巻空港を飛び立ちますが、昼前あたりから、出動が止まり始めたのです。
日中の最も救助が盛んに行われるべき時間帯に、長いケースで3時間余り出動していませんでした。
このとき待機していた12の自治体の航空隊に取材したところ、7つの隊が「要請がなくて出動できなかった」、「手持ちぶさただった」などと回答しています。

救えたはずの命
震災発生から数日間、被災した住民は必死に救助を求めていました。
花巻空港から東へおよそ70キロ。
ヘリコプターなら3〜40分程度の大槌町浪板地区にある避難所には200人ほどが避難していました。
避難所にいた看護師の川向みや子さんによりますと、津波の恐怖と寒さで皆で寄り添っていたといいます。
停電で電気ストーブが使えず、近所から石油ストーブをかき集めましたが、避難した200人が寒さをしのぐには十分ではありませんでした。
避難所は、がれきで道が塞がれて孤立し、川向さんは津波をかぶってぬれた人や、けがをした人などの手当てに1人で当たっていました。
避難していた人の中には、かなり容体が悪い人がいました。
そのうちの1人、当時81歳だった山口フヂさんは避難の最中に津波に巻き込まれ、九死に一生を得て避難所に運ばれていました。
川向さんによりますと、山口さんは足や腰の痛みを訴えていたほか、顔も傷だらけで、すぐにでも医師に診てほしかったといいます。
しかし、避難所に医師はいないうえ、薬や設備もなく、十分な手当てはできませんでした。
そこで、川向さんは救助を要請しようとしましたが、携帯電話は通じず、ほかに通信手段もありませんでした。
空からの救助が唯一の希望でした。

ヘリが飛べなかった原因は
防災ヘリコプターはなぜ飛べなかったのか。
出動の指示は岩手県の災害対策本部支援室から出されていました。
当時、支援室のトップだった小山雄士さんによりますと、支援室は各地との通信手段が断絶し、ようやくつながった電話で得られた数少ない情報を基に指示を出すしかなかったといいます。
そのときの状況について、小山さんは「連絡を取ろうとした職員の、『つながりません』という声がすごく印象に残っている。何かをしなければいけないのは分かっていたが、すごく悔しい思いだった」と振り返ります。


そのとき、花巻空港で待機していたヘリコプターの隊員たちは焦りを感じ始めていました。
高知隊の山崎さんは、「津波から逃げたものの、その場所では夜を越せない人がいるんじゃないかと思った。自分たちは本当に行かなくていいのか、困っている人を探すべきじゃないかと思った」と話しています。

遺族の思い「助けられなかった」
一方、孤立した大槌町浪板地区の避難所では一時、津波に巻き込まれた山口さんの容体が悪化していました。
救助が来ないなか、避難していた人たちは自分たちで周辺のがれきを取り除き、車で移動できるようにしました。
14日の朝、山口さんはようやく病院に搬送されましたが、津波を飲んだことで感染症にかかり、それが原因で3週間後に亡くなりました。


治療に当たった医師は、手当てが早ければ助かった可能性もあったと話しています。
山口さんに付き添っていた川向さんは、「本当にかわいそうで、救助がもう少し早かったらと悔やまれます」と話しています。
一方、山口さんの娘の寺田禮子さんは、離れて暮らす母のもとにたどり着けませんでした。
3年近くたった今も助けられなかったことを悔やんでいて、「早く来ていれば、もっと早く病院に連れて行けたかもしれないという思いが3年たっても残っています」と話しています。

積極的に情報収集を
救助に行く手段はあっても、情報がなかった岩手県
待機が続いた高知隊の山崎隊長は、解決のヒントとなる方法を、当時、次のように書きとめていました。
“被災地区毎(ごと)に情報収集のヘリを割り当てるべき”。
情報が入らないときに、「待ち」の姿勢ではなく、みずから情報収集に当たり、救助につなげようというものでした。
この提案を受けて13日の夕方、5機のヘリコプターが情報収集活動に当たりました。
山崎さんは、「被災地からの連絡を受けてヘリが出動する方法もあるが、無線や電話の代わりに飛んでいって、地元の住民や消防から状況を聞き取りにいく。そういう活動が必要だと思う」と提言しています。


岩手県はこのときの教訓からヘリコプターの運用指針を改定し、山崎さんが提案していた、「積極策」を取り入れています。
県の総合防災室の佐藤新室長は、「早い段階で情報をいち早く収集することが大切なので、ヘリの機動性を活用して積極的に被災地に行き、情報を取ってくる活動を訓練などを通じて充実させていきたい」と話しています。

教訓を生かせ
災害の初動の段階では全体像が見えず、救助要請がいつ入ってくるか分からないなかで「待機」から「攻め」に転じるには難しい判断が必要です。
そのなかで、岩手県はみずから教訓を生かそうと模索を続けています。
災害時に全国の防災ヘリコプターの派遣をコントロールする総務省消防庁はこうした姿勢を評価し支援するとともに、国も訓練でそうした「攻め」の姿勢を積極的に取り入れていきたいとしています。
全国の自治体はこうした震災の課題に学ぶべきですが、岩手県が震災前から行っていた取り組みでさえ、いまだに反映されていないケースもあります。
たとえば、災害時に消防や自衛隊、海上保安部などの関係機関のヘリコプターを調整する専門部署については、国が半年前に全国に整備するよう要請しましたが、これまでに設置した都道府県は13にすぎません。
巨大災害が予想されているところでは、ヘリは確実に必要になる「命綱」ですから、整備を急ぐべきだと思います。