20歳になった“震災遺児”


http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2015_0116.html01/16

発生から20年になる阪神・淡路大震災
震災前後に生まれた人たちはことし、成人式を迎えました。
その中には、生後4か月で母親を亡くした1人の女性もいます。
母親の死後、残された家族が、女性を支え続けてきました。
それぞれの震災20年の思いを神戸放送局の右田可奈記者が報告します。

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告げられた母親の死


楓香さんが真実を知ったのは、小学校3年生の時でした。
小学校の授業参観の時、楓香さんは友達から、明美さんのことを「おばあちゃんなの?」と聞かれたのです。
いつまでも隠し続けることは出来ない。
そう感じた明美さんは、楓香さんに、震災で実の母親が亡くなったという真実を楓香さんに告げました。
そして、「私のことをおばあちゃんと呼んでもいいけど、どうする?」と尋ねたのです。
母親の死を初めて知った楓香さん。
自宅には母親の智美さんの遺影がありましたが、祖母からは「姉」だと教えられ、楓香さんは親しみを込めて「ともちゃん」と呼んでいました。



姉だと思っていた人が、本当は母親だったなんて。
9歳だった楓香さんは、実感することができませんでした。
そして、その場で楓香さんが祖母の明美さんに伝えたことばは「オカンはオカンやん。だからそのままでいい」。
祖母の明美さんは、楓香さんにとって、大切なお母さんだったのです。

記憶のない震災と向き合う


楓香さんはまだ9歳の時に真実を伝えられたため、みずからの境遇にほとんど悩むことなく過ごしてきたといいます。
しかし、震災や母親のことを周囲から聞かれても、当時生まれたばかりで記憶が全くなかったため、戸惑うこともありました。


そうした楓香さんの気持ちを変えるきっかけとなったのが、東日本大震災でした。
楓香さんは震災遺児を支援するボランティア活動に参加。
宮城県石巻市などを訪れ、祖母に育てられたみずからの生い立ちや経験を、東北の震災遺児や育ての親たちを前に語りました。



「私が話していいのかな」。
終始ためらいを抱えたままだった楓香さんですが、話を聞いた子どもたちから「神戸から来てくれて、話してくれてありがとう」と涙ながらに言われたのです。
楓香さんは「記憶のない私にもできることがあるんや」と感じ、20年前の阪神・淡路大震災に向き合えるようになったといいます。

「私が話すことで、何か思う方もいらっしゃると思うので話をしたんですが、『神戸の方が来てくれることに意味がある』と言ってくださって、より被災地に行きたいという思いが強くなりました。これからも東北には行き続けたい」。
(楓香さん)。

20歳になった”震災遺児”


11日、楓香さんは、祖母の明美さんとともに、神戸市で開かれた震災遺児が集まり亡くなった親をしのぶ集いに参加しました。
無事20歳を迎えたことを、実の母親の智美さんに報告しました。
この中で楓香さんは、智美さんへのメッセージを書いた手紙を朗読しました。
手紙には、こう書かれていました。

「明日、わたしは成人式を迎えます。ともちゃんの年を追い越した実感はなく、ふしぎな気持ちもありますが、明日は気をひきしめて会場へ向かいます。これからも、ともちゃん、楓香を見ていてください」。

会場には、成長した楓香さんの姿を見て涙ぐむ明美さんの姿がありました。

「成人式を迎えてくれたのは、うれしい。お母さんの年超えましたからね。人の心の痛みが分かる子に育ってくれたと思うのでよかったと思います」。
(明美さん)。




12日、神戸市で開かれた成人式。
楓香さんは、祖母の明美さんに見送られ、晴れ着姿で式に臨みました。
2人の母親への感謝の思いを胸に成人式を迎えた楓香さん。
将来の夢は、自分と同じ境遇の子どもたちを笑顔にできる人です。
希望を抱いて、新たな一歩を踏み出しました。